“濃い人間関係に立ち入りたかった―。人と人との繋がりの中に飛び込んで、自分の輪郭を確認したかった。”
引用:「ナイルパーチの女子会」柚木 麻子(著)
ただ「友達」が欲しかっただけなのに。どうしてこう拗れてしまうのでしょうか。
読んでいくにつれてどんどん心が抉られていき、内臓までほじくり出されるんじゃないかと思うくらい、容赦なくナイフでグサグサ刺してきます。
この小説からは、強烈で痛快な言葉をたくさんいただきました。
あらすじ
商社で働く志村栄利子は愛読していた主婦ブロガーの丸尾翔子と出会い意気投合。
だが他人との距離感をうまくつかめない彼女をやがて翔子は拒否。
執着する栄利子は悩みを相談した同僚の男と寝たことが婚約者の派遣女子・高杉真織にばれ、とんでもない約束をさせられてしまう。
一方、翔子も実家に問題を抱え――。
(Amazonより引用)
オリジナル感想文 ネタバレなし
学校を卒業して大人になるほど、“友達作り”に励み出す人は多い気がします。
彼氏や彼女が欲しいから「恋活」、結婚したいから「婚活」、同じ趣味等で一緒に遊べる友達が欲しいから「友活」。
心から一緒に何かを楽しめる、本音をさらけ出して自然体でいられる関係。「自由な心でいられる居場所」を求めて、その関係を“友達”と呼ぶのだと思います。
友達がいることで自分の居場所を実感し、一人じゃないと心強く思える。自分のアイデンティティを確立させようとしていたのだと思います。
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自分のことを理解してくれる味方がいることは、生きていく上で大切です。
家族であれ、仕事仲間であれ、人間関係の繋がりがなければ孤独で生きていけないと感じます。
その中でも、友達という存在は特別。
インターネットで社会人の趣味サークルを探して参加してみたり、習い事を始めてみれば、“友達”ができるかもと期待してしまうけれど、それだから拗らせてしまうんです。
「友達が欲しい」「濃い人間関係の繋がりが欲しい」と自ら望んだことなのに、いざ距離感が近くなってくると逃げたくなる。
濃い関係になろうとすれば、今度は自分をさらけ出すことを恐れ、自分と“友達”との気持ちや考え方の違いを感じると「こんなはずじゃなかった」と。
本当に自分が欲しいものはこれだったのか。“友達”ってどういう関係なのだろうか。
ただ友達が欲しいだけなのに、仲良くなりたいだけなのに、濃い人間関係になろうとすればするほど気持ちが矛盾していきます。
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どうしてこうなってしまうのでしょうか。「ただ友達が欲しいだけ」というのは、贅沢な願いなのでしょうか。
ただ一つ、ハッとさせられたことがあります。
友達が欲しい、濃い人間関係が欲しいと心の中で思っていながら、相手の雰囲気や性格が自分にとって合うかどうか、メリットになるかどうかを考えるばかりで、自己開示することには慎重になっている。
「友達になりたい」と興味が湧いた相手に近づくわりに、自分のことはあまり話さない。小出しにする。
友達が欲しいと言いながら、卑怯です。
コミュニケーションを重ねていかないとお互いのことが分かり合えるわけないのに、勝手に「友達になりたい」と近づいては自分の都合で離れていく。結果として、友達ができない。
自業自得だし、その傲慢さのせいでせっかく“友達”になれたかもしれない相手のことも、振り回し、混乱させ傷つけてしまうのです。
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この小説の「友達が欲しいのに拗らせてしまう系女子」の気持ちは痛いくらい共感できました。また、それに対して思わず途中で本を閉じたくなってしまうような、厳しい言葉の数々。
間違いなく、これまで読んだ小説の中で最も刺さりました。